前回お話したように、茶器の世界から縄文土器に興味を持った私は、博物館の考古学コーナーに足を運んだ。そこには、縄文時代、弥生時代、古墳時代のものが展示されている。縄文時代は火焔型土器や遮光器土偶、弥生時代は弥生土器、古墳時代は埴輪等。
実際にそれらを見比べてみて感じたことがある。明らかに縄文時代のものだけ、作った者のエネルギーが異質だった。現代の僕らとはかけ離れた感性というか、エネルギーというか。とにかくそこから感じる芸術性は、現代の僕らには創ることのできないものだった。
それは農耕牧畜の社会では得られない感性。狩猟採集を主とした生活の中でしか育まれない感性ではないか。安定的にお米を口にすることができる生活の中では決して産まれない芸術性を感じたのだ。
現代のように高度な科学があるわけではない。逆に獲物にやられてしまう可能性も十分にある中での狩猟。興奮と緊張は極度に達するだろう。代々、そのような生活を送ってきた縄文人達は、その荒ぶった魂を鎮めるために土偶や土器の作製に打ち込んだのかも知れない。
そんなことを次々と妄想するまでになった。
こうやって私は土偶と縄文土器に心を撃ち抜かれたのだった。
実際にそれらを見比べてみて感じたことがある。明らかに縄文時代のものだけ、作った者のエネルギーが異質だった。現代の僕らとはかけ離れた感性というか、エネルギーというか。とにかくそこから感じる芸術性は、現代の僕らには創ることのできないものだった。
それは農耕牧畜の社会では得られない感性。狩猟採集を主とした生活の中でしか育まれない感性ではないか。安定的にお米を口にすることができる生活の中では決して産まれない芸術性を感じたのだ。
現代のように高度な科学があるわけではない。逆に獲物にやられてしまう可能性も十分にある中での狩猟。興奮と緊張は極度に達するだろう。代々、そのような生活を送ってきた縄文人達は、その荒ぶった魂を鎮めるために土偶や土器の作製に打ち込んだのかも知れない。
そんなことを次々と妄想するまでになった。
こうやって私は土偶と縄文土器に心を撃ち抜かれたのだった。